炎上必至!? 小泉進次郎と「古古古米」供給策の全貌

この記事の要約
小泉進次郎氏が掲げる「古古古米(こここまい)」の消費推進政策が物議を醸している。食糧ロス削減を目的とした取り組みである一方、保存状態や栄養価への懸念、政治的パフォーマンスと見る向きも多い。この記事では政策の背景、世論の反応、類似事例、そして今後の課題について掘り下げていく。
「古古古米」って何?政策のインパクトとざわつく声
「古古古米(こここまい)を食べよう!」。そんな衝撃的な発言が飛び出したのは、2025年5月某日。農業改革をテーマに登壇した小泉進次郎元環境大臣のスピーチだった。
「古米でも古古米でもない、“古古古米”を国民に提供することで、フードロスをなくし、持続可能な農業を実現する」。
そう語った小泉氏の口調はいつものように熱がこもっていたが、SNSでは即座に火がついた。
「さすがに古古古米は無理では……」「何年物の米を食えっていうの?」といったツッコミがXを中心に飛び交い、#小泉進次郎 #古古古米 が一時トレンド入りする事態に。
そもそも「古古古米」とは何か。一般に流通するコメは、収穫から1年以内のものが「新米」とされ、1年以上経ったものが「古米」、2年で「古古米」、3年以上で「古古古米」という非公式な分類がある。
通常、古古古米は品質劣化が著しく、炊き上がりもパサつきやすく、においや食感に難があることが多い。保存状態が悪ければ、虫害やカビといったリスクもある。
こうした背景から、「まさか本気で言っているのか?」という不信感と、「また進次郎節が出たか」という冷笑が入り混じった反応が起こっているのだ。
しかし、小泉氏の発言には、現代の日本が直面する「フードロス問題」と「農業在庫圧迫」という切実な課題への警鐘が込められていると見る向きもある。
“耳障りのいい政策”か、それとも改革の布石か
小泉氏の政策にはいつもキャッチーなフレーズがつきものだ。「ポエム」と揶揄されることも少なくないが、実際に環境政策などでは一定の成果を残している。
今回の「古古古米」も、一見すると突飛な提案のように聞こえるが、背景には次のような問題がある。
- 全国の農協や備蓄倉庫に眠る売れ残りの米が年間数千トン規模で存在
- フードロス削減目標(2030年に2000万トン→1000万トン以下)に対し、進捗が鈍化
- 高齢化が進む農業現場での在庫管理と廃棄コストの増大
こうした事情から、「どうせ捨てられるなら活用しよう」「国民が少し我慢してでもフードロスに貢献すべき」という論理が、小泉氏の根底にはあるようだ。
ただし、それが「納税者に古古古米を食わせる」政策として打ち出された時、人々の感情がどう反応するかを読み切れていなかったとする声も多い。
言い換えれば、小泉氏の発言は「理念先行」であり、現場の感覚とはズレた“善意の押し付け”にもなりかねない。
現場は混乱、ネットでは冷笑と怒りが交錯
今回の発言を受けて、全国の米卸業者や小売店からは戸惑いの声が上がっている。
「正直、売れる商品ではない」「3年以上経過した米は食用よりも家畜用飼料に回すケースが多い」といった声が報道各社に寄せられている。
一方で、SNSでは皮肉交じりの投稿が多数飛び交い、「古古古米クッキングチャレンジ」「進次郎式ライスダイエット」など、ネタ化が進行している。
しかし、一部では「食糧難に備える視点は必要」「自衛隊では普通に古古古米を炊いているぞ」と擁護の声も。
特に、防災備蓄を見直す層や農業・食料安全保障に関心のある層からは、「もっと真面目に議論すべき」という意見も出始めている。
「古古古米」政策の背景にある“備蓄とロス”の矛盾
日本政府は「コメ余り」問題と長年向き合ってきた。
農林水産省が定める「主食用米の備蓄管理方針」によれば、全国には「政府備蓄米」として年間100万トン近くの米が保管されている。その一部は災害時や価格調整のために放出されるが、数年が経過した米は一般消費に出回ることはほぼない。
つまり、備蓄はしているが、実際には多くが使われずに廃棄されている。
“備えて腐らせる”という皮肉な現実は、政府も当然認識しているが、実効性のある対策には至っていない。
そこに飛び込んできたのが小泉進次郎氏の「古古古米」活用発言だったわけだ。
“もったいない精神”の応用か?文化的背景を探る
日本には古来より「もったいない」という精神が根付いている。かつての日本家庭では、冷ご飯をおじややチャーハンに再利用し、食材を最後まで使い切る知恵があった。
小泉氏はこの「もったいない精神」を現代のフードロス問題に応用しようとしているようにも見える。
しかし、現代の消費者は「美味しさ」や「鮮度」に敏感だ。特に若年層や都市部のライフスタイルでは、食に対する選択基準が非常に高まっており、「賞味期限が近いものを選ぶ」といった購買行動すら避ける傾向がある。
つまり、文化的には共感できる理念でも、実際の“市場原理”とは大きく乖離しているということだ。
専門家たちはどう見る?「食の安全」と「供給の最適化」
農業経済学者の間では、この政策に対して慎重な声が多い。
「古古古米でも保存状態が良ければ食べられないわけではない。しかし、それを一律で“消費せよ”というのは、安全性・流通・消費者心理のいずれも考慮されていない」
と語るのは、東京農業大学の経済学部教授・井上和彦氏。
また、食品ロスの専門家であるNPO法人フードシェア・ネットワークの代表は、次のように指摘する。
「食品ロス対策は“誰かに食べさせる”という発想ではなく、“廃棄しなくても済むように、余らせない設計をする”ことが本質です。古古古米に頼るより、そもそも米の生産・流通構造を見直すべきです」
こうした指摘から見えてくるのは、小泉氏の政策が「供給最適化の視点」を欠いているという点だ。
フードロスをなくすには、食品が“余らない”状態を作る必要がある。しかし今回の提案は、「余った前提で話を進めている」ため、本質的な課題解決には至っていないという指摘は的を射ている。
“感情”と“論理”のギャップこそが最大の壁
政治家としての小泉進次郎氏のスタイルは、常に“熱”を持って語る点にある。言葉に力があり、キャッチーであるがゆえに、感情に訴える力は強い。
しかし、「古古古米」という言葉は、国民の“感情”を刺激するには強烈すぎたのだ。
「食」にまつわる政策は、とりわけ“感覚”や“イメージ”と密接に結びついている。安全・安心・美味しさ――こうした価値観を揺るがすような表現は、たとえ政策的に理にかなっていても受け入れがたい。
このギャップを埋めるためには、より丁寧な説明、段階的な導入、選択の余地が不可欠だ。
小泉氏の今回の提案が「唐突」であり「やや強引」だったことは否めない。逆に言えば、それだけこの政策には“火がつきやすい”爆発力があったともいえる。
過去にもあった!? 古米・備蓄米活用の試みと失敗
「古古古米」発言が波紋を呼んでいるが、実は過去にも“古米活用”の動きは何度かあった。
たとえば2010年代には、学校給食や刑務所の食事など、公共機関で備蓄米を活用する取り組みがあった。
しかし、現場からは「炊き上がりがパサつく」「香りが悪い」といったクレームも多く、結局は「少量混ぜる程度」や「加工食品用」として限定的な活用にとどまったのが現実だ。
また、コロナ禍での一時的な物資不足の際にも、備蓄米の活用が議論されたが、保管状態や搬出コスト、安全検査の煩雑さなどから迅速な供給ができなかったという教訓も残っている。
“古古古米”政策に対する国民のリアルな声
今回の話題はXやYouTubeなどでも大きな注目を集めている。
「さすがに3年以上前の米は無理」「まずは政治家が食べてみてから言ってほしい」「言ってることは分かるけど、やり方が雑」といった意見が目立つ。
一方で、「日本人は食を大切にすべき」「食品ロスをなくすには大事な提案」「フードバンクにも回せばいいのでは」といった一定の支持層も存在している。
つまり、国民の反応は「完全否定」でも「絶賛」でもない。「理想は分かるけど現実が追いついていない」といった、もどかしさの表れなのだ。
“選択可能性”が鍵。押し付けではなく、選ばせる政策へ
ここで改めて問いたいのは、「誰に、どのように、どんな意図で」この政策を届けたいのか、という点だ。
たとえば、食に対して価値観が異なる層――災害時の緊急食、生活困窮世帯、環境意識の高い若者層など――に向けて、選択肢として提供するのであれば、受け入れられる余地はある。
重要なのは「選ばせる」ことであり、「食べさせる」ではない。
また、ラベル表示の徹底や、適切な品質チェック、利活用先の明確化がなされれば、「賛否」から「議論」へと建設的なフェーズに移行できる。
“炎上”を恐れずに語れる未来型フードポリシーとは?
政治家が“食”を語ると、どうしても感情的な反発を招きやすい。
しかし、小泉氏のような影響力ある人物が「食品ロス」や「農業資源の持続可能性」をテーマに据えて発信すること自体は、非常に意義がある。
むしろ、今回のように炎上という形で注目が集まったことは、議論の入り口としては悪くないのではないか。
たとえば、下記のようなアプローチも考えられる。
- まずは自ら「古古古米」を食べてみせる
- 品質の確保と保存技術の進化を同時に発信
- 民間企業との連携で「再加工」食品として提供
- 地方自治体の給食や炊き出し支援と連携
こうした“段階的実装”と“共感を生む演出”があれば、古古古米はただの炎上ワードではなく、“意義ある選択肢”として浸透するかもしれない。
現代のフードポリシーは、「経済合理性」だけではなく、「倫理的・環境的な合理性」も問われる時代になっている。
小泉氏の挑戦が一過性の話題で終わるのではなく、本当の意味で「もったいない」を超える未来型の食政策につながることを願いたい。